第555回番組審議会は、5月8日(金)に開かれました。
出席委員はご覧の方々でした。
〔委員〕
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〔欠席委員〕 道浦 母都子 委員 |
〔当社側〕 渡辺 克信 社長、北畠 宏泰 専務、 福田 正史 取締役編成本部長、田仲 拓二 取締役、 山本 晋也 編成局長、川崎 宏 ラジオ局長、 田中 俊行 制作局長、松田 安啓 スポーツ局長、 藤岡 幸男 報道局長、本城 謙三 広報局長、 小関 道幸 事務局長、藤沼 純夫 事務局員 |
1.報道・情報系番組の「取材」のあり方、「情報」の取り扱いと放送倫理、人権の問題について
*日本テレビ「真相報道バンキシャ!」や、テレビ朝日・報道ステーション「徳島土地改良区横領事件」報道に対するBPOの勧告など、今、報道・情報系番組への信頼が揺らいでいる。また当社のラジオ番組「誠のサイキック青年団」についても同様の問題であり、放送の信頼に向けて議論。
<以下 出席委員の意見 要旨>
- ルール違反の問題が日常のように起きている。いつになったら、こういうことがやめられるのだろうか?民放連作成の「裁判員制度」の資料を読んでも、「耳を傾ける」「報道は避ける」といった文言が並ぶが、官僚がつくった文章のようだ。根本的なことをやらないと、また起きるだろう。
- 取材のあり方、記事の取り上げ方で、大学関係者の間では「あら探しばっかりしている」という声をよく聞く。例えばセクハラの問題、論文の捏造などには熱心だが、大学本来の研究成果については、なかなか興味を示してくれない。どんどん記事をあげることが評価に繋がるようだ。これはマスコミ社内及び大学側にも、評価システムの問題が災いしているのではないか。取材内容や研究に対するインセンティブを考えていない。もっと良い内容の「成果」を伝えて欲しい。
- 「人権の問題」について特定の団体から抗議の声があがると会社は動くが、個人が一人で声を上げたとき、取り上げるメカニズムがマスコミの側にあるのだろうか。組織だった動きでないと取り上げてもらえないのは、本当に人権に取り組んでいることにならない。
- 「またか」「何故、ずっとこの議論をするのだろう」という思いがする。『誠のサイキック』の問題も含めて、結局人を育てるシステムがどうなっているのかが課題だ。放送倫理や人権は、結局「人」の問題だ。電波は公共のものであり優遇され、ある権力を持っている。その基本的なことで公共性を問う事件が起きている。放送局にとって自浄能力とは何だろう。
- 『サイキック』問題は、スキャンダルについて法律的には、名誉毀損、プライバシーの侵害という論点だ。民事での損害賠償の金額が大きく、厳しくなっている。あまりにもメディアの「公共的事実に関しない」、「真実性の担保を欠く」取り上げ方に、裁判所が一部のテレビや雑誌に対しお灸をすえる判決が出てきたのではないか。メディアはスキャンダルに甘すぎる。
2.「裁判員制度」と放送のあり方について
*“裁判員制度”について「公正な裁判を受ける権利」と、国民の知る権利に奉仕する「報道の自由」など、放送のあり方について議論。
<以下 出席委員の意見 要旨>
- 「裁判員制度下の事件報道」は法制化という話があったが、国民の知る権利の代表として報道機関の自主規制でおさまった。今、放送倫理の問題が毎日のように起きている。自主規制は諸刃の剣だ。余程自分で守らないと、国民から批判されるし、最後は法制化ということになる。
- 裁判員の選任や法廷内の各段階で可視化のことが書かれているが、こういう場所で本当に審議が出来るのだろうか。裁判員はアトランダムに選ばれた人であり、公人ではない。映像に映し、意見まで公表ということになると魔女裁判を想起する。国民参加の精神は大きい。マスコミを含め、国民が育てる裁判員制度にして欲しい。
- テレビを見ていると何となく犯人が判ってくる。犯人らしい人をしっかり映し、何回も見る間に犯人だと思わせてしまう。しかし違うこともある。事件報道は、写す人編集する人が正しい判断でやって欲しい。何回も映ることで見応えがあるかも知れないが、公平で正確な映像を提供して欲しい。テレビの映像はインパクトが強い。
- 林真須美被告の裁判で「裁判員となって死刑を宣告できるか」という番組がほとんどだった。むしろ知りたいのは、裁判員となったら何が制限されるかだ。和歌山カレー事件は10年かかっている。裁判員になれば10年も関わるのか?急な欠席や本来の仕事の優先度、報酬についてなど。裁判員に選ばれると取材されてしまう怖さを感じる。何を考えればいいか重要なことは伝わっていないのではないか。
- 市民が裁判に参加することは基本的に賛成だが、問題点はいくつかある。職業裁判官に課していない守秘義務を裁判員に課しており、罰則もある。裁判が終わったあと裁判員に記者会見を申し入れても、最高裁から回答がない。この制度のなかで起きていることを検証する必要がある。基本的な情報を社会が共有することは公益である。一方、ワイドショーなどでの事件報道の伝え方では、余程気を付けないと官の規制を招く可能性がある。
- 今メディアに要求されている公共性とは、「多様な論点を示すこと」に尽きる。特にテレビメディアがジャーナリズムとして、その公共性を発揮するための論点の一つだ。裁判員制度が始まるが、事件報道のあり方が問われている。ある事件を映像で捉える時、決して犯人とは言っていないが、しつこく同じ断片的な映像を繰り返して報道すると、ある人にクロの心証を抱かせてしまう。「多様な論点、色んな見方がある」ということをガンガンやらないといけない。こういう議論を繰り返しやり、我々自身の意識を変えていかねばならない。裁判員制度は、ジャーナリズムが検証する必要がある。3年後に見直し規定があるが、検証を国家権力にゆだねてはいけない。それはメディアの役割だ。
■その他 放送番組全般について
<以下 出席委員の意見 要旨>
- 新型インフルや北朝鮮のミサイルの危機感を煽る報道姿勢は問題がある。政府がやや危機を誇張する姿勢を感じる。おそらく8月の総選挙が近づいていることと無関係ではない。北の問題では、「核武装論」が非常に安易にバラエティ番組などに勢いづいて出てくる。もっと掘り下げ、多角的な観点から是々非々で論ずべきだ。世論が安易に危機感に流れる危惧を感じる。
- 最近見た番組で、「ドキュメンタリ宣言」では、南田洋子さんの“認知症”という病気について赤裸々に映し出し、よく認識ができた。「テレメンタリー」では 『アスペルガー少年の闘い』で、この病気を知った。タイトルは“友達が欲しい”。子ども達もこの番組を見て、この少年と友達になって欲しいと思った。
以上